歴史の中の「逆境を跳ね返した決断」(2):マハトマ・ガンジー
1915年1月に46歳でインドへ戻ったとき、モーハンダー・スカラムチャンド・ガンジーは、南アフリカでインド人コミュニティーの公民権運動をおこなった功績により、すでに国際的に認知されていた。それまでの21年間、彼は南アフリカで弁護士として活動していたのだ。
ガンジーは、インドで「偉大なる魂」を意味する敬称「マハトマ」の名で広く知られていた。また、南アフリカと故郷グジャラート州に設立した「アシュラム(修行場)」で暮らす弟子たちにとっては、「バープー(お父さん)」でもあった。ガンジーにとって、インドでの公民権運動とイギリスからのインド独立の闘いに身を投じたことは、自然な成り行きだった。その流れで、彼は、イギリス支配の終結を求めて活動していた政党「インド国民会議派」に加わる。
まだ南アフリカに住んでいたころ、ガンジーはインド国民会議派のリーダー、ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレーから次のような助言を受けていた。インドで何か積極的な役割を担いたいのなら、インドの複雑な政治情勢を少なくとも1年かけてよく理解してからにすべきだ、と。この助言に従ったガンジーは、のちに、この穏健で良識あるゴーカレーのことを、自分の師であり指導者であると語っている。
インディゴ(藍)栽培の小作農
1916年12月におこなわれたインド国民会議派の会合で、ある人物がガンジーに近づいてきた。ビハール州のヒマラヤ山麓のチャンパランからやって来た小作農のラジクマール・シュクラだった。彼はガンジーに、「チャンパランに来て、インディゴ栽培の小作農たちとイギリス人地主たちとの争議解決に手を貸してほしい」と依頼する。ガンジーは当初、この件を引き受けることに気が進まなかった。チャンパランのことを何も知らないし、インディゴ栽培の知識もなかったからだ(インディゴは染料の工業生産に使用されていた)。しかし、シュクラはガンジーの出席する会合すべてに現れ、繰り返し訴えたので、ついにガンジーはチャンパラン行きを承諾する。
チャンパランに足を踏み入れるとすぐに、ガンジーは小作農の深刻な状況を悟った。手をこまぬいていては飢饉(ききん)が起きるかもしれない。小作契約により、彼らは土地の一部に食用作物ではなくインディゴを植えることを強制されていた。また、収穫したインディゴを定額で地主に売ることも取り決められていた。地主たちは収穫物の買い取り価格の値上げを拒む一方、地代を小作農が払えないほど高く引き上げようとしていた。小作農たちは地元当局に苦情を申し立てようとしたが、まったく相手にされなかった。ビハール州政府は地主たちの言いなりだったのである。
これは、金と権力を持つ植民地主義者が地位と影響力を利用して、貧しい弱者から搾取する典型的な例だった。そして、ガンジーは決意を固める。南アフリカでイギリスの植民地支配に対抗すべく編み出した「市民的不服従」という手法を、母国で試すときが来たと。
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